クリームパン

Friday, March 03, 2006

蜻蛉(とんぼ)

蜻蛉(とんぼ)釣りに蜻蛉の行衛(ゆくえ)をもとめたり、紙鳶(たこ)上げに紙鳶のありかを探したりする煩(わずらわ)しさに兄は耐えられなくなってしまった。そうして雑草を踏みしだいて駈け廻ったり、ゴム※(まり)をはるばると投げ上げたりする輝かしい遊びからも彼はすっかり遠ざかってしまった。彼は肥って色が白かった、それが黒眼鏡を掛けだしてから、いっそう静な清浄な感じのする子供になった。彼を憫(いとお)しむ言葉が、弟らの前で、しばしば周囲の人々の口に上った。歌津子がこまごまとした毛糸細工を贈ったり、小さな南京玉の飾りを兄の胸へつけてやったりすることもたびたびあった。 弟は勝気な健康な子供であった。それが、いつの間にか何かしら憂鬱(ゆううつ)を感じるようになった。 ある晩、村の社(やしろ)の祭礼で、兄を真中に、歌津子と弟とが両側に並んでお参りをした。帰りは、紙鉄砲や折紙細工の批評や、焔の上に手を翳(かざ)して平気でいた魔術師の噂さなどで、彼らはそれぞれ興奮していた。 人通りの少いところへ来ると、兄は先きにたってピイピイと口笛を鳴らした。弟は大声で軍歌を唄った。歌津子は空を仰いだり彼らの歌に耳をすまして微笑(ほほえ)んだり、今買った京人形を愛(いとお)しんだりして歩いていた。 しばらくゆくと、彼女がふいと兄のからだに抱きついて彼を引き戻した。闇(くら)がりから大きな馬の顔が現れた。「ちっとも見えないんだ。」と兄が言った。彼女はしっかりと兄の手を握って息を喘(はず)ませた。 それを見ると弟はきゅうに口を緘(つぐ)んで、彼女を放っておいてどんどん先へいった。弟の胸の中に不満と淋しさが膨(ふく)れ上っていたのだ。 その夜、床にはいってから、弟は夜着の中でいつまでも眼を※(みは)っていた。そして彼は、隣りに眠っている兄の穏かな寝息きを聞くと、こっそり起き上って、枕もとの兄の黒眼鏡を持って縁側に出た。そして、廁(かわや)の側の雨戸を開けて、星の輝いてる空に向って、力限り抛(ほう)り上げた。それから床に戻って、いつか教会で聞いた神様の名を幾度も口の中で繰り返えした。いつの間にか涙が眼にいっぱいに溢れた。そうして瞼(まぶた)を合せると、自分が歌津子と肩を組みながら、兄が馬に喰われているのを眺めている夢を見た。 中学校へ通うようになると兄はいっそう無口になった。兄の穿(は)く靴を弟は嘆美に似た心持ちで眺めた。それから、兄がリーダの復習をしているのを傍で聞いていると、きゅうに、兄が、どんなに踏み台をしても届かないようなところへ昇天してしまったような気がするのだった。 ある日、弟は兄の友人からこんなことを聞いた。その日、兄の組は体操の時間に高い梁木の上を渡らされた。兄は、教師の止めるのを聞かないで、皆と同じように渡ろうとした。そうして、半ばまで来ると、不意によろめいて、くくり猿のように梁木にしがみついた。いったい、片方の眼を失った彼が、直線の上を真直(まっすぐ)に歩こうとするのがむりなのだ。兄はそこから吊さがっている長い棒を伝っていったん下へ降りてきた。教師は苦笑しながら、それみろと言った。 皆が渡りきると、兄はも一度片方の梯子(はしご)を登り初めた。教師は赧(あか)くなって兄を叱った。兄は微笑しながら、だいじょうぶですと言った。そして登っていった。 三分の一ほど行くと、彼はまた重心を失って、危く腹這(はらば)いになった。下から仰ぎ見ている教師も生徒も愕然(がくぜん)として顔色を変えた。「下りろ、下りろ。」と教師が甲高(かんだか)に言った。兄はそれにはかまわずにも一度梁木の上に立ち上った。そして今度は五寸ぐらいずつ小刻みに丹念に歩いていった。下の人たちは笑いながら蒼くなってそれを看守(みまも)った。 兄が渡りきって下りてくると、教師が「ばか」と言った。そして兄は残りの時間じゅう、梁木の下に立たされたのだという。 兄は一言もそれを家の者に話さなかった。弟は兄にある懼(おそ)れをさえ抱き初めた。 弟は歌津子といっしょに小学校に通っていた。雨の日は同じ傘で帰ったり、お天気には月見草や手鎖りや草笛に誘われていっしょに道草を食ったり、それからもちろん意地の悪い友だちの冷評と楽書きの的となったりしつつ彼らは毎日愉快であった。 彼女も兄に対してはもうある距離を感じていた。そうして学校から帰ってきて、復習をしてもらうために、弟とともに兄の机の前に坐る時にも、ともすると救いを求めるように弟の方へ微笑(ほほえ)みかけて、兄に向っては、以前ほどはっきりと口を利(き)かなくなってしまった。

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