クリームパン

Friday, March 03, 2006

家は酒の醸造(じょうぞう)

家は酒の醸造(じょうぞう)を業としていた。住居(すまい)から五町ほどいった浜辺に酒倉がある。小学校を出ると、弟は、父の意志で、それへ毎日やらされることとなった。彼はそこで新しい酒樽の木の香を嗅いだり、褌(ふんどし)一つで、火の入った酒の焚(た)き出しを手伝ったりした。彼の肉体にはぐんぐん力がはいってきた。そして真白なその肌は、そこに働いている男たちの評判になった。 歌津子は県立の女学校へ通っていた。学校でやった縫物を持ってきたり、リーダを抱えて兄の部屋へはいってゆくことがたびたびあった。弟は時おり彼らの会話に耳をすました。それから探るように彼女の眼を見た。彼女の物を言う時の口つきとか柔かい膨(ふく)らみを示した手とか、彼女から発するあらゆる微細な表情がいちいち彼を懼(おそ)れしめるようになった。彼はこっそりと教会へ通った。 ある夏の夕方、三人はテンマに乗って海へ出た。弟が櫂(かい)を握っていた。兄と彼女とが並んで彼の方を向いて掛けていた。艪臍(ろべそ)の鳴る音と胴が波を噛む音とに遮(さえぎ)られて、彼らの会話は弟の耳へは達しなかった。しかし弟は、白暮の冷い光りの中に浮びでている二つの顔に、じいっと神経をたてた。 あたりに舟は一艘もいなかった。弟は裸になった。「どこまで出るの?」と彼女が訊(き)いた。それには答えないで、弟は力限り漕(こ)いだ。彼の肩から二の腕へかけて真白な肉瘤が盛り上りその上に汗がいちめんに滲(にじ)んでいた。舟は彼のからだとともに劇(はげ)しく揺れ、空には星が輝き、そうして彼らは涯(はて)しのない淋しさの中へ出ていった。 彼女は片手を兄の膝(ひざ)に載(の)せ、片手でしっかりと舟縁(ふなべ)りを掴んでいた。風に乱された彼女の髪が、兄の没表情な頬の上に散りかかってゆく。「いやだ、いやだ。」そう言って彼女は身を震わせた。「寂しいの。ばかだなあ。」そして兄は微笑んだ。 弟は艪を止めて舟を流した。彼の大きな胸は彼らの方に向いて緩(ゆる)く波打っていた。「疲れたろう。」と兄が言った。「なあに。いけるところまでいくとおもしろいんだ。」「そうだね。」 もうすっかり闇(くら)くなっていた。近くの海面からイナの跳(は)ねる音がひびいてきた。そして水の中を白坊主のような水母(くらげ)がいくつも浮いて通った。彼女はあたりを見廻した。「もし舟が覆(かえ)ったらどうしようかしら。」 それを聞くと弟は大声で笑った。それから彼は言った。「舟を漕ぎながら、ふいと気が違ってしまうと愉快だと思うがな。」 今度は兄が声高(こわだか)に笑った。「結局どうなるんだろう。」「誰が?」「誰って?」「結局死ぬんさ。」「結局死ぬんだろうなあ。」「死ぬからつまらないさ。」 そう言って兄は空を仰ぎ見た。そして彼女を顧(かえり)みた。「見える?」「なあに?」「星さ。」「あんなに光ってる。」「闇(くら)いね。北斗星はどこ?」 彼女は手を挙げた。兄は黒眼鏡のかかった顔をひたりとそれに寄せた。 弟は櫂(かい)を握って立ち上った。舟ががぶりと揺れた。「寒い、わたし。」そして彼女は坐りなおした。弟は彼女の膝へ彼の浴衣(ゆかた)を放り掛けた。それからまた沖へ漕ぎ初めた。彼女は劇(はげ)しくかぶりを振った。「もう帰るんだ。」と兄が命令するように言った。弟は聞かずに漕いだ。舟は気違いのように暴れ進む。彼女は真蒼になって兄に抱きついた。兄はじっと弟を見据(みす)えて唇を噛んだ。 弟は眼の前の空を見た。空の星が自分の汗の中へ溶けこんでくるほどの快さであった。彼は舟の下を走る潮騒(しおさい)に耳をすました。音は自分の胸から湧きでるほど自然に聞えた。彼は力の張りきった自分の腕と股を見た。幸福がすべて宿っているように思われた。熱い涙がさんさんと彼の眼から流れた。彼は艪を外(はず)して大声に泣きだした。 兄と彼女が空虚な眼を※(みは)った。舟はやはり沖へ進んでいた――

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