クリームパン

Friday, March 03, 2006

爾(なんじ)

 ――われ爾(なんじ)が冷(ひやや)かにもあらず熱くもあらざることを爾のわざによりて知れりわれ爾が冷かなるかあるいは熱からんことを願う――弟はゆうべ床で読んだ聖書の句を繰り返えしながら寝着(ねまき)のままで裏へ出た。雑草が露の重味で頭を下げ霧に包まれた太陽の仄白(ほのじろ)い光りの下に胡麻(ごま)の花が開いていた。彼は空を仰ぎ朝の香を胸いっぱい吸った。庭の片隅の野井戸の側に兄が蹲(うずく)まっていた。弟の近寄る跫音(あしおと)を聞くと兄は振返えって微笑んだ。眼鏡を外(はず)した左の眼が白い貝の肉のように閉じている。 先きを輪にした長い蛙釣りの草が二三本そばに落ちており、兄の手には細い解剖刀がキラキラと光っていた。兄はそれをブリキ板の上に乗っている大きな蛙の口へつっ込んだ。それから両手で手際よくその皮が剥がれ透き通るような肉が取り除かれて清らかな内臓が出てきた。心臓がまだひくひく動いている。「どうだ。いいだろう。」 弟は漠然(ばくぜん)と笑った。「人間とそう違わないんだぜ。」「うん。」 二人はしばらく黙ってじっとその解剖体を見ていた。それから兄はそれをブリキ板ごと、前の井戸の中へ放りこんだ。胃袋や肝臓や直腸が板を放れてばらばらに水の中に浮き沈みした。兄は解剖刀を洗って二三度水を切って立ち上った。太陽の光が眩(まぶ)しいほど明かに彼らの上に落ちてきた。 二人は並んで主家(おもや)の方へ引き返えした。「聖書なんか読むよりずっとおもしろいだろう?」 そう言って眇(すがめ)の兄の顔が笑いながら弟の眼を覗(のぞ)きこんだ。 中学を出ると兄は東北のある専門学校へ入った。兄のたつ日、小さな車に兄の柳行李(やなぎごうり)を積んで弟と歌津子とが町の停車場まで送っていった。汽車が出てしまってからも彼女はいつまでもあとを見送って立っていた。弟は車の轅(ながえ)を掴んで、その彼女をじっと待っていた。それから彼らは闇(くら)い道をてんでに別なことを考えつつ引き返えした。途中で雨が降ってきた。弟は車を道ばたに置いて十間ほど後から来る彼女のところへ戻っていった。「遅れるから忙(いそ)ごう。」 そう言って彼は彼女の手をとった。彼女は眼にいっぱい涙を溜めていた。それがきゅうに唇を震わせて彼を見た。「車にお乗り。」そして彼は胸を轟(とどろ)かしながら彼女の肩に手をかけた。彼女はもう一度鋭く彼を見詰め、それから不意に彼の胸を押し除(の)けて駈けだした。彼は硬くなって彼女の後姿を見守った、そして車のところへ戻って、提灯(ちょうちん)に火を点(つ)け、寂(さび)しい車輪の音をひびかせながら彼女のあとを家に帰った。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home